2019都民芸術フェスティバル 公式サイト
第59回式能 インタビュー
観世 銕之丞(かんぜ てつのじょう)
観世 銕之丞さん
能楽師(シテ方観世流)。1956年生まれ。八世観世銕之亟静雪の長男。伯父観世寿夫、及び父に師事。2002年、九世銕之丞を襲名。2008年度日本芸術院賞、2011年紫綬褒章を受章。重要無形文化財保持者(総合認定)。公益社団法人銕仙会 理事長、公益社団法人能楽協会 理事長。東京を中心に全国で活躍するほか、ニューヨーク、ポーランド、韓国等、海外公演にも多く参加している。またこれまでにポール・クローデルの詩を題材にした創作能「薔薇の名-長谷寺の牡丹」、ショパン生誕200周年記念新作能「調律師-ショパンの能」といった新作能でシテや演出を勤めるほか、武満徹の現代音楽とコラボレーションした能舞「水の曲」に出演するなど、古典を越えた世界でも幅広く活躍。
第59回式能
式能を観劇するにあたり、能楽初心者は予習や準備をしてから臨むべきでしょうか?
式能は1部と2部で構成されており、通しで見ると長い時間がかかります。どちらかというと2部のほうが動きがあり華やかな曲が多いですが、どちらか1部だけ見ても十分楽しんでいただける構成となっています。比較的わかりやすい曲もあれば、ちょっと屈折した曲もありますので、もしもその辺りを深掘りしておきたいという場合は、あらかじめ曲についての情報を入手されておくといいでしょう。当日のパンフレットにも簡単な曲の解説が書いてありますので、それを見ていただくだけでも大丈夫です。あるいは観劇後に「あれはいったいなんだったんだろう」と思い返して勉強していただいてもいいと思います。要はあまり堅苦しく考えていただく必要はありません。なお、狂言は難しい言葉は出てくるものの、内容としてはだいたいわかりやすいと思います。というのも、狂言は人間の弱い部分やエゴの部分をおおらかに笑うというのが基本ですから、自然体で見ていただければ楽しく感じていただけるものなのです。
長い上演時間中に眠くなってしまったら、いびきをかかない程度に居眠りしていただいても結構です(笑)。また、式能の中で「あまり好みではない」と思われる曲があった場合は、その時間帯は客席を抜けて休憩したり、食事されたりする時間にあててもいいと思います。上演中に出入りしなければ、マナー違反にはなりません。ジャズフェスティバルやロックフェスティバルでは、観客はすべてのアーティストのライブを見るわけではなく、お気に入りのアーティストを中心に見ますよね。式能はあれと同じようなものだと考えていただければいいと思います。
式能で上演される「翁」「三番叟」などは固定のものでしょうか。
「第55回式能」より「翁」 観世清和
式能の場合、上演形式は固定しています。式能の正式な上演の仕方は、まず翁をやり、それから神様、男性が主人公のもの、女性が主人公のかずらものと続き、4番目に狂女ものとかドラマティックな写実的なものを含めた雑多なものをやって、最後に鬼などが出てきて戦うような華やかな曲をやるという5番立てとなっています。
翁はストーリーがあるわけではなく、ひとつの儀式です。お正月や年度替わりですとか、舞台が新しく作られたこけら落としなどに翁をやって、この舞台で事故が起きないようにとか、人々が幸せでありますようにといった祈りを込めます。
また、最後に鬼退治の話が来たときは殺伐とした終わり方になってしまうこともあるので、お客様にめでたい気持ちで帰っていただけるよう、最後に附祝言というめでたい謡の一節を付け加えています。今回の式能でも最後の「綾鼓」は「ああうらめしやうらめしや」という言葉で終わってしまうような曲なので、附祝言を加えています。例えば「鶴亀」「難波」「高砂」などの曲の一節ですが、どのような附祝言が歌われるのかは当日までわからないことになっています。
能の始まりは室町時代の観阿弥・世阿弥親子からと言われています。
室町時代に観阿弥・世阿弥親子が能を大成したと言われていますが、それは彼らが作り上げた上演形式と演出が普及したことに由来します。観阿弥が亡くなって約680年、世阿弥が亡くなって約650年なので、能にもそれだけの歴史があるということになります。この能に先行する芸能は、もとは大陸から伝わった散楽という曲芸や歌芸、踊り芸などが合わさったもので、最初は宴会の場面で盛り上げたりするような単純なものでした。それが次第に1つの劇形式になっていって、人の心を掘り下げるようになっていきます。人々の鬱積した気持ちをやわらげ、明日への活力を得てもらう目的で行われた芸が次第に発達していき、そのうち、人の心をシニカルに笑う芸として伝承されるようになったのが狂言です。一方、能は能面と能装束で姿を隠すことで、逆に人間の深いところでうごめく感情を表現するようになります。うれしいと思うことの中には必ず悲しみも含まれているし、苦しみの中にも喜びがあるといったように、人の心は複雑です。そこで、外側のいろいろな情報を面や装束で隠すことによって内面を引き出し、見ている方の表面ではなく内側の深いところにつなげていくという能の手法が、この600年かけて作り出されてきました。
「枕慈童」
600年もの間、能はどのように伝承されてきたのでしょうか。
私たちは自由に話せる時代に生きていますが、祖父やそれ以前の時代の人はそもそもしゃべらないわけですよ。芸を教えるにしても弟子が何か言おうものなら、師匠から「つべこべ言うな」「屁理屈言うな」と怒られてしまう。そんな調子ですから、芸も師匠と同じものができていきます。師匠と弟子は顔つきも声も性格も、人生も違うわけですから、まったく同じものをはめるのはどうかと思うでしょう? 個性が死んでしまうのではとも思われるかもしれません。しかし師匠と同じ形になっても、不思議と個性は消えるものではないのです。抑制をかけられたことによって、逆に深いところの個性が解き放たれるような、そういう伝承の仕方があるのです。
欧米ではもっとリラックスしてどんどん自分を出してと言われますが、日本人は、実はあまりそういうやり方が得意でない体質ではないかと感じます。むしろ抑制をかけられることで個性が出てくるという、へそ曲がりというか(笑)。「抑制の中からはみ出した個性は純粋な個性だからお互いに認め合おう」、そんなとらえ方を始めたのが、おそらく室町時代の人たちだったのでしょう。
そして能は戦国時代、江戸時代という爛熟期の後、明治維新で一度その流れが途切れかけます。しかし再び能や狂言の価値を見出してもらったものの、関東大震災でまた途切れ、さらに戦争で途切れるという、潰れかけては復活することを繰り返してきました。現在は能を伝承することで、世界における日本の文化の価値がより高まるというか、日本文化のユニークさを象徴するものになると思うので、そのためにわれわれもお手伝いできることがあればやりたいと思っています。
より多くの方に能を観てもらうためにはどうすればいいと思われますか。
能というと「あの長くて難しくて眠たくなるやつね」と、イメージだけが先行しがちです。また、学校が能という芸能を教えることにブレーキをかけてしまいがちという現状も問題です。というのも、先生が能のことをわからないので、教材があってもいわゆる「飛ばし教材」にされてしまうのです。ですからまずは先生方が能を理解し、楽しんでいただきたいですね。そうすればおのずと能・狂言をお教えいただくことができるでしょう。能楽協会はそのため協力は惜しみませんし、能楽祭というファン感謝デーのような公演も行っています。また、東京、名古屋、北陸、京都、大阪、神戸、九州支部で普及のための企画からベテランの方による本格的な公演も行っているので、ぜひ足を運んでいただきたいですね。もっと当たり前に、教育現場で古くから続く日本の伝統や文化を正当に教えていいのではと感じています。
銕之丞さんはどのような思いで能を舞っていらっしゃるのでしょう。
子どもの頃は「こんなものをやらされるのはたまらん」と思っていたのですが(笑)、大人になると、能が人に勇気や人生のうるおいを与えたり、人を支えられたりするということに気づき、能を通じて人々のお役に立ちたいという思いが生まれました。また、人生をかけて修行してきたものがこれでよかったということを確認するために活動しているところもあります。能という文化を次世代に伝えると、違う形に姿を変えることもあるでしょう。しかし芯になる部分さえしっかり伝えることができていれば、私だけでなく父や祖父、師匠から与えていただいたものも継承されていくはずです。
能の継承方法は一子相伝のような、親から子へ、という継承方法に限られているのでしょうか。
外部からも入れますが、厳しい修行になります。長時間の正座はなじみのないものでしょうし、非日常のものを作り出していくということも大変だし、数多い謡やせりふを覚え、それを共演者とうまく合わせ、さらに舞の所作も覚えないといけません。古典は人の作った曲をカバーするのと同じようなものなので、その人自体が何かを持っていないと単に真似しただけにすぎず、それでは意味がありません。その「何か」を自身の人生の中で作りながらですから、10年や20年では結果が出にくいし、そもそも時間をかけなくては面白くならないわけです。そのため、外から入る場合はできるだけ早いうちから良い師匠につき、正当な稽古をしてもらいながら徐々にキャリアを積んで舞台に出ていくことになります。能楽協会にも、実際そうやって外部から入られた人は多いですよ。外部から入るシステムも、国立能楽堂をはじめとしていろいろなところにあります。また、体が資本なので、体が丈夫であることは絶対条件です。
都民芸術フェスティバルのウェブサイトをご覧の方へメッセージをお願いします。
大の男が何十人も出てきて、いろいろなことを力一杯表現します。「こんなものがまだこの世の中にあるのか」というような原始的な一面もあれば、「こういう表情忘れていたな、こういう声を忘れていたな」と感じていただける場面もきっとあると思います。ですからあまり心に鎧を設けず、気軽な気持ちで素直な気持ちで見てください。第二部のチケットはまだお求めになれますので、国立能楽堂でお待ちしています。
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