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第49回東京都民俗芸能大会より『鹿島踊』出演団体インタビュー
鹿島踊保存会(奥多摩町)
吉野 榮喜(よしの えいき)
吉野 榮喜さん
1949年、旧小河内村で出生。小河内ダム建設のため1954年に羽村町(現羽村市)へ移転。高校生の時に初めて祖父から鹿島踊を教えてもらい、大学生から本格的に指導を受けるようになる。1970年鹿島踊保存会設立に参加、1980年には「小河内の鹿島踊」が国指定の重要無形文化財となる。踊子として長く踊っていたが、1996年に保存会会長となってからは歌を担当。
島﨑 富夫(しまざき とみお)
島﨑 富夫さん
1953年、旧小河内村・原地区の鶴の湯温泉郷近くで出生。4歳の頃に小河内ダムが完成し、湖面より上に作られた新しい集落へ移転。その後15歳の頃に西多摩郡瑞穂町に転居し、現在は青梅市在住。30歳の頃に、前会長であった伯父からの勧めをきっかけに鹿島踊保存会に入会。約20年踊子を務め、後に歌と笛を習得し、現在は笛を担当。
第49回 東京都民俗芸能大会 花風流(はなふりゅう)~うたとおどりの競い~
鹿島踊と呼ばれる民俗舞踊は関東のいくつかの地域で踊られていますが、「小河内の鹿島踊」の起源や特徴について教えてください。
吉野 鹿島踊は小河内ダム竣工に伴い水没した西多摩郡小河内村で継承されてきた踊りで、日指(ひさし)・岫沢(くきざわ)・南(みなみ)の三集落の加茂神社及び御霊社の祭礼で踊られてきました。鹿島踊が旧小河内村にいつ伝わったのかははっきりしていませんが、公家の落人が伝えたとも旅の僧が伝えたとも言われています。古くは祇園踊と呼んでいましたが、『三番叟』の歌詞に「鹿島踊をいざ踊る」とあることから、鹿島踊と言われるようになりました。
小河内の鹿島踊は、女装した男性の踊り子が6名、囃し方(下方/したかた)が笛2人、太鼓・唄2人の構成となっており、下方の歌と笛によって踊りを演じます。『三番隻』のときは烏帽子狩衣の男子も踊りに加わります。1935年に日本青年館の舞台に出演した際の写真を見ると、当時からこの構成であったようですが、もっと昔には大小の鼓や大太鼓なども使われ、演者も多かったようです。現在11曲の踊りが残されていますが、唄の中に「ぽんぽん」「とんとん」「ぽーぽ一」といった言葉が出て来るのは、鼓など鳴り物の代わりを言葉で表したものと思われます。小河内の鹿島踊最大の特徴は踊り子が男子女装である点で、これはほかの地域の鹿島踊には見られません。
江戸時代初期の女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と続く中の、若衆歌舞伎の系統に属するもので、古歌舞伎踊の遺風を伝える貴重な民俗芸能として、1980年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。鹿島踊と呼ばれる郷土芸能は各地にあるため、「小河内の鹿島踊」として指定されています。
鹿島踊保存会発足の経緯をお聞かせください。
吉野 旧小河内村は郷土芸能の宝庫で、日指・岫沢・南の3集落に伝わる鹿島踊をはじめ、河内(こうち)・川野・原・峰の獅子舞、川野の車人形、留浦(とずら)の花神楽など、各集落に郷土の芸能がありました。娯楽の少なかった時代の大きな楽しみとして、仕事や結婚で村を出た人も神社の祭礼で帰村し、演者や観客として祭りを盛り上げていたそうです。しかし小河内ダム建設が1938年に起工し、太平洋戦争時の中断を経て、1948年にダム工事が再開。多くの人が村を離れ、祭りもできない状態になりました。1950年の小河内村解村式から20年近く経過した頃、ようやく移転先での生活も安定してきた人々から「年に一度、故郷に集まる機会を作ろう」という話が持ち上がり、その手段の1つとして鹿島踊を伝承する保存会を結成しようということになりました。小河内に残った人たちも保存会の設立に賛成してくれ、1970年に保存会を立ち上げました。
現在の会員構成や活動について教えてください。
吉野 会員は、旧小河内村出身の人とその子孫によって構成されています。設立当初の会員数は30名を超えていましたが、高齢化などにより、現在実質的に活動できる会員数は25名ほどです。恒例の活動としては、毎年9月第2日曜日に行う小河内神社祭礼の奉納と、東京都立奥多摩湖畔公園「山のふるさと村」の春祭り・秋祭りへの出演があります。小河内神社は旧小河内村の各神社を合祀した神社で、「山のふるさと村」の一帯は、日指・岫沢・南の3集落があったところで鹿島踊発祥の地です。本番に合わせて稽古を行いますが、すでにメンバーは踊りや太鼓、笛、歌は覚えていますので、稽古では「合わせる、そろえる」などの確認が中心です。その他、公的機関や劇場などから出演依頼があれば出向いています。
島﨑 踊り子の平均年齢は30代~40代前半で、20歳くらいから始める人が多いのですが、中学2年生と小学5年生の私の孫も、すでに踊り子となっています。小学生の孫のほうはまだ身長が低く、舞台でほかの踊り子とのバランスが悪くなってしまうので、160センチほどまで背が伸びれば本格的に踊ることになるでしょう。とはいえ、昨年ピンチヒッターで舞台に立っているので、初舞台はすでに踏んでいます。
吉野 かつては16~17歳から練習を始め、22~23歳で結婚すると踊りから外れて歌と太鼓に移るという流れでした。昔は結婚が今よりも早かったですし、若い踊り子がたくさんいたので、均等に踊る機会を与えるという目的もありました。今は人手不足ですから、中には50歳過ぎても踊っている人もいます。
伝承していくことの大切さについて、どのようなお考えをお持ちでしょうか。
島﨑 旧小河内村で生まれ育った鹿島踊は、故郷を失った郷土芸能でもあります。「地域」を持たないゆえ町のイベントで披露することもない鹿島踊を、これからどのように保存伝承していけばいいのかは大きな課題です。
吉野 古くから伝わる多くの郷土芸能は、衰退の一途を辿っていると思われます。鹿島踊もその例に漏れませんが、さらに深刻な悩みがあります。伝承者の多くが各地に移住したことで、それぞれの子孫にとっては自分の生まれたところが故郷となり、そこにはまた別の郷土芸能があります。子どもたちにとっての郷土芸能は自分の生まれ育った土地の郷土芸能で、その地域にとっても子どもたちは郷土芸能の貴重な後継者人材です。つまり、小河内に残った鹿島踊伝承者の子孫も、たとえば獅子舞など、地区に残った別の郷土芸能の後継者となることは少なくありません。
ただ、小河内の鹿島踊だけに着目すればそういう悩みになりますが、別の視点から見れば、人々の移転が別の郷土芸能が伝承されていく一助となっているともいえます。数百年も連綿と伝えられてきた郷土芸能は、大勢の人が集い心をひとつにして盛り上げるという点では、地域が異なっても根底に民族的・民俗的な共感と繋がりを覚えます。そういう意味では、郷土芸能は日本人の心の原点として、地域だけでなく社会全体で後世まで伝えていくことが必要ではないかと思っています。
鹿島踊を見て興味を持った方が習うことは可能でしょうか?
吉野 もちろんです。参加したいという方は大歓迎です。保存会会則では、鹿島踊の保存伝承に理解があり会則に賛同される人であれば、年齢・性別・出身地を問わず入会できることとしています。鹿島踊は男子女装と定められており、以前は化粧も踊り子自身が行っていましたが、舞台出演などの時、化粧の濃さを統一するため、着付けも含め現在は女性会員にお願いしています。どちらもぎりぎりの人数でやっていますので、会員になって手伝ってくださる方がいれば助かります。小河内の鹿島踊の様子は動画サイトなどにもアップされていますので、ぜひ見てみてください。
今回の東京都民俗芸能大会で披露していただく演目をご紹介ください。
吉野 『浜ケ崎』『鵜鼓(かっこ)』『桜川』『三拍子』の4曲を披露します。一番手の込んでいる踊りは『浜ケ崎』で、美しい振りが見どころです。『桜川』は踊り子が小道具の網を持つので、踊り自体が華やかになります。『三拍子』は現在残された11曲すべてを踊る際、必ず最後に踊る演目で、扇子を持たずに踊り、はっぴを着た踊り子も参加します。『三拍子』のみ輪になって踊り、ほかは対面で踊ります。鹿島踊の踊りは、手足の振りが右側からという、日本舞踊の基本と同じです。踊りを習い始めた頃は、長老から「膝を曲げて腰を低く落とし、両膝の間に半紙を挟んで落とさないように踊れ」と指導されたものでした。実際半紙を落とさずに踊ることは無理ですが、そういった女性らしさを強調した動きも見どころです。国の指定を受けていることもあり、化粧、着付け、小道具作りもできるかぎり昔のやり方を守っています。ぜひ楽しんでご覧ください。
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