能楽師 豊嶋晃嗣さんにインタビュー

第65回 式能

能は「余白」があるからこそ、見る人の想像力が刺激される芸能

シテ方金剛流の豊嶋晃嗣さんは、第65回式能のトリである第二部「鵺・白頭」でシテをつとめます。「式能」の由来や「鵺」のみどころ、能の楽しみ方、そして豊嶋さんにとっての能についてまで、能楽師ならではの視点でお話いただきました。

豊嶋晃嗣(てしまこうじ)

シテ方金剛流能楽師、能楽協会理事。広島県広島市生まれ。幼少の頃より祖父・豊嶋豊、父・豊嶋敬三郎より手解きを受け、その後、伯父・豊嶋彌左衛門(三千春改メ)、先代金剛流宗家・金剛巌および当代金剛流宗家・金剛永謹に師事。5歳で初舞台。以後、子方として様々な舞台に出演。慶應義塾大学卒業後は京都を拠点に全国各地で活動、能楽の普及・育成に努める。重要無形文化財保持者(総合認定)。

五流が勢ぞろいし、1日がかりで上演する格調高い「式能」

──式能とはどのような能楽公演なのでしよう。

諸説あるようですが、江戸時代、3代家光、4代家綱の頃に猿楽(能楽)が儀式に用いる音楽や舞踊である式楽として定められ、公的な催しなどの際にはいつの頃からか「翁付五番立」というプログラムの組み方を正式としてきました。「式能」も公式な儀式として上演する能楽の催しですのでそれにならっています。

「翁付五番立」とは、まず「翁」をやり、その後に「神・男・女・狂・鬼(しんなんにょきょうき)」という5種類に分類される演目を順番に上演する形式のことです。「式能」は現在でも「翁付五番立」という正式な上演形態を取っている定期公演であり、たいへん貴重です。1日に能を5番(翁を含めると6番)と、その合間に狂言を4番するとかなりの長時間になるため、「式能」では2部に分けて上演しています。古来より伝わる格調高い正式な上演形態、それに伴う緊張感、また観世、宝生、金春、金剛、喜多の各流儀の芸を存分にお楽しみいただける催しです。私も若い頃から、いつかは参加させていただきたいと思っていた憧れの公演でもありました。シテとして参加させていただくのは初めてですので、身の引き締まる思いです。

勝者頼政と敗者鵺、どちらも主人公になりえる「鵺」

──豊嶋さんが演能される「鵺(ぬえ)」のあらすじや見どころをお聞かせください。

5番目キリ物に属する2場面構成の演目で、今回の「式能」ではトメ(一番最後)に上演されます。1日のしめくくりなので、べたべたしてはいけない、そしてお客様はそろそろ疲れたり飽きたりしてきているかもしれない頃ですから、はっきりと謡い、大きく舞うことが大切だと言われています。

「鵺」は「平家物語」にある「鵺退治」が典拠とされています。近衛天皇は、夜な夜な現れる「鵺」が災いをもたらし、病魔に苦しんでいました。そこで源三位頼政という弓の達人に鵺の退治を命じます。ある夜、頼政と家臣の猪早太が待ち構えていると鵺が飛んできました。頼政引いた大弓は鵺に当たり、猪早太がとどめを刺します。そして鵺は木をくり抜いて造る丸太舟であるうつお舟に乗せられ、淀川に流されました。このように、内容的には勝者・頼政の武勇を讃えることが主になっているのですが、一方では鵺の敗者としての哀れさや悲しさが混在しています。頼政と鵺のどちらに感情移入するか、それはご覧になるお客様次第です。

ちなみに「鵺」とは一体どういったものなのかといいますと、演目の中では「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、足手は虎、鳴く声は鵺に似ている」とされています。実際にはトラツグミという鳥がモデルになっているようです。

見どころですが、まず前場ではシテが竿を持って登場しますが、これはうつお舟に乗っているという意味です。暗闇の中をどこからともなく静かに現れる様子を「一声」という唯子で表現しています。そして、クセ(曲の小段のひとつ)では頼政との戦いの場面を再現するのですが、シテは頼政になったり猪の隼太になったり鵺になったり、コロコロと変わります。同一人物の役柄がひんぱんに変わるというのは、能ならではの演出かもしれません。衣装を着替えることもなく異なる役柄を演じるところは見どころのひとつです。

後場では、最後に登場する2つの歌にご注目ください。ひとつめは、左大臣藤原頼長が頼政に向かって詠んだ歌「ほととぎす 名をも雲井に あぐるかな」(ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ)に対して、頼政が「弓はり月の いるにまかせて」(弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです)と返歌を詠む場面です。弓張り月は三日月のことで、三日月が射るにまかせただけですと頼政が謙遜しているわけです。頼政は弓の達人であるだけでなく歌人としても優秀だという、頼政の人物像が垣間見られる場面です。ふたつめは、最後の最後に地謡で謡われる和泉式部の有名な歌「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」です。強く救いを望んでいる和泉式部の歌は、うつお舟の中で朽ちていく鵺の、それでも救いを求める切実な思いをよく伝えています。

ストーリーを知っていたほうが舞台をより深掘りして楽しめる

──能楽初心者は観能にあたって予習や準備をしてから臨むべきでしようか?

個人的な見解になりますが、少なくともストーリーは一読してから観能されることをおすすめします。ストーリーを知らずとも理解し楽しめる演目もたくさんありますが、五番立の演目の中には動きの少ないような、いわゆる通どころの演目もあります。ストーリーが頭に入っていると、例えば「今、一足出たのはどういう意味だったのだろう?」とか「このお離子は疾走感がすごい!」などといった具合に、能特有の型や所作、演奏など、さまざまなところに意識が向かいやすくなると思います。ストーリーがわからないと、舞台上で何が行われているのか追うことだけでいっぱいで、「結局何の話だったんだろう?」となってしまうかもしれません。

ただ、見方や感じ方にはこれといった決まりや正解はありません。立ち方、地謡、お唯子、後見などに注目する、あるいは能面や能装束に注目してご覧いただいても面白いと思います。自然体でご覧になって、少しでも琴線に触れるところを大事にしていただきたいですね。

オチがなく余白はたっぷり、そこが能ならではの魅力

第22回豊嶋晃嗣能の会 能「熊野」
シテ豊嶋晃嗣 ©上杉遥

──豊嶋さんにとって能の魅力はどんなところでしよう。

お能って結論を急がないんですよね。起承転結も特にありません。解釈の仕方も色々あって、すべてを人に委ねているような芸能だと感じます。というのも、お能は「余白」が多い芸能でもあるので、見る方によって解釈が違うのも不思議ではないのです。そうしたことは私ども演じ手にも当てはまることで、どのように演じるかはその人によって異なります。私も若い頃は親や師匠の教えを守ってがむしゃらに稽古するのみで、そういった心境までなかなか至らなかったのですが、気が付けばいつの頃からか、自分のつとめる舞台を認知していただき、能役者として能に従事していました。能楽師の一家に生まれ育ち、大学時代は能楽師以外の進路に思いをはせたこともありますが、やはり振り返れば自分は能に育てていただいたと感じます。お能は大きくてあたたかいもの、私にとってはそんな存在です。

今は能を知ってもらう活動が積極的に行われる時代に

──豊嶋さんは金剛流の各種企画や「五流の愉しみ」でのワークショップなど、能楽の魅力発信にも尽カされています。より多くの方に能楽の魅力を伝えるための考えをお聞かせください。

昔前には、「能楽師が人様の前で喋るな」というような風潮があったように思います。それこそ武士の名残なのか、自分が演じる前に解説やお話をすると言い訳のように感じたのでしょうか。しかしここ20~30年間で能楽界も変わりました。解説や対談などを含んだ企画公演が増えましたし、ワークショップなどの講座も盛んに開催されるようになっています。観ていただく方にまずはご理解いただいて、その上で楽しんで観能いただきたいといった趣旨でしょう。私も「五流の愉しみ」というワークショップを、五流の5人の能楽師で試作的にさせていただいています。実は流派の横のつながりというのはあまりないため、「若いうちから顔を合わせておこうよ」と定期的に集まるようになり、そこから「5人でワークショップやろうか」という話が生まれました。演者サイドからじかにお話や実演をさせていただけ、お客様サイドからもご意見をうかがえるという相互にやり取りのできる機会を、私たちもありがたく思っています。

──最後に、都民芸術フェスティバルのウェブサイトをご覧の方ヘメッセージをお願いします。

「翁付五番立」と聞きますと、格調高く難解なイメージが先立つのではと思われます。「神・男・女・狂・鬼」といったさまざまな主人公が登場する能や狂言が上演されますが、そのストーリーはシンプルなものばかりです。ただ、シンプルだからこそそこには「余白」が生まれます。ありったけの想像力を持って、お能の「余白」を感じてみてください。国立能楽堂でお待ちしております。



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