特集7:芸能がつなぐ地域と社会|2017都民芸術フェスティバル 公式サイト

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芸能がつなぐ地域と社会

野口 金雄さん
野口 金雄(のぐち かねお)さん

野口 金雄(のぐち かねお)

菅生一座座長・菅生組立舞台保存会員
東京都あきる野市菅生出身。「秋川歌舞伎あきるの座」立ち上げメンバーの一人。農業高校勤務のかたわら50年以上役者や裏方として歌舞伎の上演に関わる。平成16年に地元町内会有志とともに菅生一座を立ち上げ座長に就任。東京農業大学グリーンアカデミー講師・NHK学園講師。

菅生歌舞伎はどのように生まれたのか、その歴史や変遷について教えてください。

この地域では、江戸時代からずっと獅子舞が行われてきました。しかし次第に舞手が減っていったため、「獅子舞に替わって歌舞伎をやろう」という話になりました。最初は自分たちで芝居をするのではなく、舞台をこしらえ、そこにあきる野市二宮神社から栗沢一座を招いて歌舞伎を上演しました。それが明治42年のことです。そして昭和10年、「自分達も歌舞伎をやりたい」という声が若者から上がり、自ら公演を行うようになったのが「菅生歌舞伎」の始まりです。公演のたびに組み立て終了すれば解体する木造の舞台は、現在は「菅生の組立舞台」として東京都有形民俗文化財に指定されています。
私自身は50年以上前、20歳を過ぎた頃に同じ町内に住む先輩から「お前もやれ」と言われて、有無を言わさず参加させられました(笑)。しかし10数名の有志だけで菅生歌舞伎を存続させることは難しく、町内会の一座として改めて立ち上げ直そうと、平成16年に菅生一座として旗揚げ、初代座長に私が就任しました。それまで舞台こそ持っていたものの、衣装やかつらはすべて栗沢一座から借り、化粧もしてもらっていました。菅生一座となってからはそれらもすべて手作りでやろうということになり、衣装はお母さん方が手縫いで、かつらも作り方を学んで自分たちで作りました。化粧も演目ごとに勉強して、今では三味線や鳴り物も含め、すべて自分たちで用意できています。

菅生歌舞伎といえば、「菅生の組立舞台」として東京都有形民俗文化財にも指定されている組み立て式の木造の舞台が有名です。この舞台のことも含め、菅生歌舞伎の特徴を教えてください。

獅子舞も歌舞伎も、地元の正勝神社という神社の祭礼で奉納するために行われたものです。ですから祭礼の時だけ舞台があればよく、常設する必要はありません。そこでこのような組み立て式の舞台がつくられました。舞台は長さ15m以上もある太い丸太を、釘を使わず藁で結んで組み立てます。舞台は用途に合わせて五間(約9m)と八間(約14.5m)の2種類に組み上げることができ、地元住民で「菅生組立舞台保存会」も組織。舞台師と呼ばれる会員が貴重な技術を受け継いでいます。移動できる木造舞台というのは、日本ではうちだけだそうです。
演目の中に笑わせる部分を盛り込むなど、アレンジは土地によって違いますが、農村歌舞伎と都心の劇場で上演される歌舞伎は内容もセリフも基本的には一緒です。菅生歌舞伎も、先輩達が続けてきた菅生らしさを継承しつつも本筋は崩していません。それから運営面での特徴として、活動資金は基本的に会費のほか資源回収の収入でまかなっています。会員たちが資源回収の作業も行うのですが、どの家庭も歌舞伎の活動資金になることを知って資源ごみを提供してくれるので、とてもありがたいですね。

菅生歌舞伎

菅生一座の構成について教えてください。

現在は3歳から81歳まで80名ほどの座員がいます。あきる野市内の菅生、尾崎、四軒在家(しけんざき)それぞれの町内会長もそろって在籍していることで、「会長がやっているなら自分も」と、「興味はあったもののとっかかりがない」という人が参加しやすくなりました。あと2つの町内会長も興味がある様子なので、現在スカウト中です(笑)。
80名の中には裏方しかやりたくないという人もいれば三味線希望の人もいますし、その辺は本人の希望に合わせています。20数名いる女性座員の中で役者をやっているのは一人ですが、「来年は生きてないかもしれないから出して」と言い続け、毎年出演している80歳過ぎのおばあさんもいます(笑)。菅生一座では役者が舞台師も兼任します。舞台師は高いところに上がって飛んで歩きます。私も以前は地面を歩いているかのように動けましたが、65歳を過ぎた頃からそれが怖いと思うようになってしまいました。そうなるともう舞台師としてはだめですね。舞台師として頼もしい戦力となるのは40~50代の座員です。

活動や稽古はいつ、どんなところで行われるのでしょうか。

毎年秋に奉納歌舞伎を行うほか、依頼があると公演に出向きます。昨年は3か所から依頼があったので、1年で4回の公演はなかなか忙しかったですね。また、毎年小学校2校と中学校1校で歌舞伎教室を行っています。小学生は顔にくまどりを塗るんですが、それが面白くてたまらないようです。そのままの顔で残りの授業を受けて、家に帰って、買い物にまで行くんですよ(笑)。得意になっている姿がかわいいです。一方の小学校では創作歌舞伎もやります。先生が昔話から起こした台本を、こちらが歌舞伎調でうたい、児童がそれを覚えるのです。みんなボランティアなので大変なこともありますが、こうして地域の伝統を継承することは大事だと思っています。
一座の稽古は毎週月曜日が所作や発声など、火曜日が三味線や鳴り物となっています。2時間稽古したら、その後の2時間は親睦を兼ねた宴席です(笑)。その時間、子どもたちは年上のお兄さんお姉さんに遊んでもらったり、あるいは自分より年下の子の相手をしてあげたりして過ごしています。学年を越えて一緒に過ごす時間というのは、子どもにとっても貴重な経験だと思いますね。大人はお酒が入ると、お互いの社会的地位など一切関係なく「あの場面はこうした方がいい」などはっきり言い合いますが、それが風通しのいい関係にもつながっています。

今回ご上演される演目についてご紹介ください。

民俗芸能チラシ
PDF(1.10MB)

『傾城阿波の鳴戸 順礼歌の段』を上演します。阿波藩のお家騒動の最中に家宝の刀が紛失、元家臣の十郎兵衛と妻のお弓は娘のお鶴を祖母に預けて大坂に移り住み、十郎兵衛は盗賊の仲間になって刀を探します。何年も経ったある日、幼い頃に別れた両親に会いたいと阿波の徳島からやって来た順礼の娘が、まさに二人の実の娘でした。しかし盗賊の罪が娘にも及ぶことを恐れたお弓は母と名乗ることなく「国で親の帰りを待つがよい」とさとします。ここに置いて欲しいとすがるお鶴を泣く泣く追い返したお弓ですが、お鶴の歌う順礼歌が次第に遠のくと、いま離れたら二度と会えないと思い直し、娘の後を追うという話です。「泣ける話」ではありますが、今回の東京都民俗芸能大会のテーマは「おどけと笑い」ですから、泣くより前に笑いの要素がついています。また、今回は義太夫節ではなく、江戸から明治にかけて多摩に伝わり、昭和20年頃まで大流行した地域の名物である説教節で行いますので、ぜひその点にもご注目ください。

野口座長にとって菅生歌舞伎とはどのようなものですか。

「歌舞伎を通して町内会のみんなが仲良し」というのが、私の一番の願いであり目的です。現在、菅生町内の158世帯のすべての顔と名前が一致します。それが大事なんです。隣の家にどんな人が住んでいるかも知らないという時代、菅生では子どもの顔までしっかりわかります。ほかの町からも「菅生一座があるおかげで菅生はまとまっている」とよく言われます。菅生歌舞伎を柱として、菅生だけでなくほかの町内も巻き込んで、伝統文化を守ると同時に仲良しな町づくりにつなげていきたいですね。私にとっても地域にとっても、菅生歌舞伎はなくてはならないものです。

東京都民俗芸能大会のような地元を離れた劇場の舞台で、ふだんは接することのない観客に向けて上演することについては、どのように思われますか。

名物の組み立て舞台以外のどんな舞台でも、しっかり芝居ができなくてはいけないとは思っています。ただ、普段は木造の舞台に合わせたセットなので、背景をどうしようかといった工夫は必要になりますね。それもまた勉強になりますし、東京芸術劇場で上演できるという貴重な経験はみんなの刺激になります。大いに学び、楽しみたいと思っています。

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